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アドリエンヌ・フォン・シュパイア

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アドリエンヌ・フォン・シュパイア

アドリエンヌ・フォン・シュパイアは、地上において天上の生活を営むように召されていました。医師としての仕事もまた、この召命に愛をもって従うことから生じていたのです。アドリエンヌの生涯は、祈りの世界においてありました。すなわち、三位一体の神の命が人間に対して開かれ、その命の光が天地創造の真の性質と目的を明らかにしてくれる、そんな世界に生きていたのです。

子供時代

アドリエンヌ・フォン・シュパイア(1902-1967)は、スイス、ラ・ショー=ド=フォンにて、テオドルとロール・フォン・シュパイア(旧姓ジラール)の4人の子供たちの2人目として誕生しました。両親はアドリエンヌの誕生の数年前に結婚しました。眼科医であった父テオドルはバーゼルの旧家出身であり、この家は宗教改革以前から既に鐘職人、宗教画家、印刷業者の家系として知られていました。今日でも、有名な「バーゼルの鐘」のいくつかにはフォン・シュパイア工房の名がつけられています。後に、フォン・シュパイア家は、医者や牧師、成功を収めた実業家を輩出するようになります。アドリエンヌの母方も、ジュネーヴとヌーシャテルで活躍した時計職人と宝石職人の家系でした。地理的な要素は重要で、アドリエンヌは常に故郷の州とジュラ山脈の簡素な美しさを鮮やかに記憶しており、彼女の晩年にもしばしば思い起こすことになります。

母の腕に抱かれるアドリエンヌ、両親と姉ヘレンと共に少女の頃のアドリエンヌ・フォン・シュパイア
3.アドリエンヌの少女時代一種の避難所であった祖母の家、ティヨル家

1.母の腕に抱かれるアドリエンヌと家族
2.少女時代のアドリエンヌ
3.アドリエンヌの少女時代一種の避難所であった祖母の家、ティヨル家

度々病に伏したにも関わらず、アドリエンヌは落ち着いた、明るい気質の子供でした。幼い頃から宗教的事柄には多大な関心を持っており、自分の育ったプロテスタント的枠組みに狭く捕らわれるのを嫌いました。アドリエンヌは特に、祖母の「ティヨル家」で過ごすのが好きでした。温かく理解を示してくれた優しい祖母のことを、アドリエンヌは生涯に渡り回想し続けました。

休暇の際には、アドリエンヌと姉弟たちは叔父であるウィルヘルム・フォン・シュパイア医師を訪ねることを許されました。彼はヴァルダウと呼ばれるベルン州の公立精神病院を運営していました。子供時代から、アドリエンヌはその病院の患者たちに対して恐れを抱かず、むしろ彼らを理解して落ち着かせ、意思疎通を交わす不思議な賜物を持っているようでした。叔父も彼女のこの賜物を認めており、彼女を人形を片手に重症患者のところにやるのをためらいませんでした。ヴァルダウの風景は、内部も外部も、アドリエンヌにとっては第二の故郷のようなものになりました。

ギムナジウム時代と闘病

アドリエンヌにとってまた別の忘れがたい経験は、彼女がラ・ショー=ド=フォンのギムナジウム生だった頃のことです。そこで彼女は、ラテン語とギリシア語を学んだ他、フランス語(同州の第一言語)を勉強して厳格な言語学的素養を身につけました。アドリエンヌは無駄のない的確な話し方を好み、噂話や意味のないおしゃべりが大嫌いでした。クラスで唯一の女子学生であったアドリエンヌは、トップの地位を悠々維持していました。その明るさ、陽気さ、ユーモアのおかげで、彼女は学校の人気者でした。

15歳になる前に、アドリエンヌは父親を亡くしました。バーゼルに仕事を移そうと準備していたところ、父テオドル・フォン・シュパイアは突然病に倒れ、数日後に帰らぬ人となってしまったのです。アドリエンヌは、勉学の面でも気質の面でも学校では抜きん出ていましたが、家庭で自分がより大きな責任を負う義務を感じるようになります。その結果大いに負担がかかるようになり、身体が衰弱し、命に関わる結核にかかってしまいます。スイスのランゲンブルックの病院で一夏を過ごした後、1918年10月から1920年7月までアドリエンヌはレザンの病院で過ごしました。ここで、彼女は長い時間を祈りの内に過ごすようになり、苦しみというものをよく知るようになったのです。彼女自身がまだ闘病中であったにもかかわらず、彼女は他の病棟を訪ねて、死にゆく患者たちの世話を手伝いました。

スイス、ランゲンブルックの精神病院で患者と看護師たちの一団の前で膝まづくアドリエンヌ(1918年)
ラ・ショー=ド=フォンにて、ギムナジウム時代のアドリエンヌ(1917年頃)
  1. スイス、ランゲンブルックの病院で患者と看護師たちの一団の前でひざまずくアドリエンヌ(1918年)
  2. ラ・ショー=ド=フォンにて、ギムナジウム時代のアドリエンヌ(1917年頃)

真の教会とは何かという問いについてますます深く考えるようになったアドリエンヌは、頻繁にカトリックのチャペルで祈るようになります。レザンの病院から退院したものの、まだ完治はしていなかったアドリエンヌは、サン・ルーで看護の勉強を始めます。しかし、再発し、治療のためヴァルダウの叔父の元に送られます。そこで、ついに彼女の健康は回復しました。

アドリエンヌは19歳になりました。彼女の家族はバーゼルに居を構え、まもなくアドリエンヌはバーゼルのギムナジウムに入学します。ドイツ語を学び、たった1年半後にはドイツ語で卒業試験(スイスの大学入学資格Matura)に合格しました。ここでもアドリエンヌはまたたくまに学校の代表的生徒となり、校長や同級生たちの人望を集めます。アドリエンヌの母親は彼女を銀行員と結婚させようとしましたが、アドリエンヌは医学を学びたいと宣言します。彼女の母親はそのために金銭的援助をすることを拒否します。ベルンの叔父ですらアドリエンヌの計画には猛反対しました。こうして、アドリエンヌの生涯で長く最も厳しい時代が始まることになりました。医学校に通うこと自体既に十分大変でしたが、彼女は、空き時間に家庭教師をして医学校の学費を自分で稼がねばならなかったのです。

何より彼女に志を続けさせたのは、苦しむ人々を助けたいという彼女の熱い想いでした。彼女は臨床実習でその本領を発揮し、まもなく集中治療室で頻繁に夜勤を担当する許可を取得します。静かに患者のベッドを次々に見回り、苦しむ人たちを落ち着かせ、病人たちと祈り、死の床にある人々にその最期に向けた準備をさせる、こうした夜の時間を、アドリエンヌは後に好んで回想したものでした。医学校の教師たちは、難病を見分ける彼女の直感的才能に驚嘆しました。その教師たちの中には、外科医のゲルハルト・ホッツがいました。アドリエンヌはホッツを大いに尊敬し、彼の早過ぎる死は彼女に大きく影響を与えました。彼女の同窓生フランツ・メルケやアドルフ・ポートマンと生涯に渡る親交を結んだのも医学校からでした。メルケとポートマンは後に彼ら自身の分野で教授となります。

結婚と仕事

1927年、イタリアのサン・ベルナルディーノで休暇中(それはアドリエンヌが初めて自分一人で休暇を取ることができた最初の機会でした)、彼女はバーゼルの歴史家エミール・デュルに紹介されます。デュルの同僚アルベール・オエリの仲人のおかげで、二人はまたたく間に婚約、結婚します。デュルは寡夫であり、二人の小さな息子がいました。アドリエンヌは彼らに母としての愛情をふんだんに注ぎました。新婚夫婦はバーゼルの大聖堂広場に引っ越し、そこでライン川を見下ろす美しいアパルトマンに住みました。

若き日のアドリエンヌ・フォン・シュパイア
アドリエンヌと最初の夫エミール・デュルの息子たち、アーノルドとニクラウス(1930年頃)
  1. 若き日のアドリエンヌ・フォン・シュパイア
  2. アドリエンヌと最初の夫エミール・デュルの息子たちアーノルドとニクラウス(1930年頃)

当時、アドリエンヌはまだ医学生でした。結婚して1年後、彼女はようやく資格試験を受けることができました。アドリエンヌの初仕事は非常勤医でしたが、すぐに彼女は自身で医者として開業します。瞬く間に彼女の元には、時に1日60〜80人の患者が押し寄せるようになりました。その中には、彼女が無料で診察した貧しい患者も多く含まれました。常に患者の人柄全体と人生において抱えている悩みに気を配る若き医師アドリエンヌは、患者の結婚生活を修復したり、中絶を阻止したり、宗教的な問いを解決することにも重要な役割を果たしました。彼女は医師としてのエートス、とりわけ医師と患者との間の人間的関係について、多くの洞察を残しており、それらは後に Arzt und Patient『医師と患者』というタイトルで出版されています。

アドリエンヌは夫が早い死を遂げてしまうのではないかと恐れていましたが、それは現実となってしまいます。1934年2月12日、エミール・デュルはトラムの事故で世を去ってしまいます。その2年後の1936年、アドリエンヌはバーゼル大学歴史学科のヴェルナー・カエギ教授と再婚します。彼はヤーコプ・ブルクハルトの生涯を書いたことでよく知られています。

カトリックへの転会と使命

1940年11月1日、真のキリスト教を見出したいというアドリエンヌの長きに渡る葛藤は、彼女のカトリックへの転会によってついに終止符を打たれます。この大胆な決断によって、「カリスマ(賜物)」としか言いようのない恵みを豊かに受ける、アドリエンヌの生涯の新時代が開かれます。

アドリエンヌの祈りは、ますます聖書の観想に焦点を当てるようになります。彼女に多くの聖書の注釈書を書かせることを可能にしたのは、神学的素養というよりは彼女の祈りなのです。彼女が好んだ執筆方法は口述筆記(素朴で自然体の、大げさな信心深さや嘘くさい熱狂のない口述筆記)で、毎日午後に30分程度行いました。アドリエンヌの聖書に関する著作、その他の神学的・霊的著作は、全部で約70冊ほどになります。

アドリエンヌの執筆活動は、彼女の家庭生活、仕事、社会生活にとっては一種の副業のようなものでした。アドリエンヌは、自分のことにばかりかまけていることはなく、常に他者のために良いことをする方法を探しているような人でした。疲れ知らずで、非常に気前が良く、明るく、ユーモラスで、子どものようで、できれば匿名で人に贈り物をするのが好きだというような人でした。しかし、彼女自身も贈り物を受け取ることに稀な賜物を持っていました。彼女は、上辺だけの謙虚さなど微塵も感じさせず、心から喜んで贈り物を受け取りました。打算のない愛と「無償性」こそ彼女らしさでした。聖ヨハネ共同体女性信徒支部の創設者としてのアドリエンヌの活動に関しても、同じことが言えます。彼女は、大いなる献身と、母親的な優しさと厳格な慎重さの絶妙なバランスをもって、この共同体の指揮を取りました。

アドリエンヌ・フォン・シュパイア、バーゼルにて、聖ヨハネ共同体の女性のグループと共に(1950年代)

アドリエンヌ、バーゼルにて、聖ヨハネ共同体の女性のグループと共に(1950年代)

アドリエンヌの晩年

カトリックへの転会の前から既に、アドリエンヌは深刻な心臓疾患を患っていましたが、まもなく深刻な糖尿病によって悪化します。夜はほぼ完全に苦しみと祈りに当てられました。転会後すぐ、彼女は毎日正午くらいまで床についたままでいることを余儀なくされました。通常彼女は早朝少ししか眠ることができませんでした。それでも、彼女の著作の口述筆記と共同体の共同創設者としての活動は、少なくとも1949年までは途切れることなく続けられました。彼女の自制心のおかげで、通常彼女は自分の心臓疾患などの問題を周囲の人たちから隠すことができました。それでも、時間が経つにつれ、診察する患者も減らさざるを得なくなり、結局医師としての活動は完全に辞めることを余儀なくされます。こうして、長い隠遁生活が始まり、彼女は午後を沈黙の祈りのうちに過ごしながら、入り組んだキルトの編み物をして過ごすようになります。そして視力が衰え始めると、編み物も止めざるを得なくなりました。ほとんど全盲状態になったアドリエンヌですが、それでも午後にはいくつかの手紙を書くよう努めました。

アドリエンヌは、その闘病生活の中で、極めて辛抱強くエネルギーを発揮しました。無理をしながら階段を降りて自分の仕事部屋に向かい、また階段を登るのには手助けが必要でした。身体的に彼女の晩年は長い拷問のようなものでしたが、完全に落ち着いた平静な心で彼女はそれを耐えたのです。人生の最期の数日、彼女は死を予見して自分の幸福について語りました。「死ぬというのは何と美しいことでしょう」と彼女は言いましたが、それはただ神しか楽しみにするものがないから、でした。1967年9月17日、アドリエンヌは息を引き取り、数日後65歳の誕生日に埋葬されました。

まるで神の摂理そのものが、アドリエンヌ・フォン・シュパイアの人格から醸し出される力強く明瞭な光に覆いをかぶせようとしたかのようです。というのも、彼女の活動と苦しみのすべてが、奇妙に隠された状態で起こっていたからです。まるで神がそれらを直ちに彼女の手から取り上げて、ただご自身のものとされたかのように。この偉大な女性の死後、その隠された賜物を明らかにするかどうかは、神の裁量に委ねられていたのでした。彼女のことをよく知っていた人々(それにはもちろん彼女の元患者たちも含まれます)は、彼女のことを常に感謝の心をもって思い出しました。

仕事机につくアドリエンヌ・フォン・シュパイア(1965年)

1.仕事机につくアドリエンヌ・フォン・シュパイア(1965年)
2. バーゼルのアドリエンヌの墓。(私たちのロゴのインスピレーションともなっている)彫刻は、アルベルト・シリングによる三位一体の喚起。

バーゼルのアドリエンヌの墓。(私たちのロゴのインスピレーションともなっている)彫刻は、アルベルト・シリングによる三位一体の喚起。

1.仕事机につくアドリエンヌ・フォン・シュパイア(1965年)
2. バーゼルのアドリエンヌの墓。(私たちのロゴのインスピレーションともなっている)彫刻は、アルベルト・シリングによる三位一体の喚起。

参考文献

  • Balthasar, Erster Blick auf Adrienne von Speyr, Trier, Johannes Verlag Einsiedeln, 1989.
  • ―, Hans Urs von, Adrienne von Speyr (1902-1967). Die Miterfahrung der Passion und Gottverlassenheit, in P. Imhof (Hrsg.), Frauen des Glaubens, Würzburg, Echter Verlag, 1985, 267–277.
  • ―, Adrienne von Speyr als Ärztin, in Missionskalender 1972, Benediktiner-Missionare von St. Ottilien, 1972, 58⁠⁠-⁠⁠61.
  • ―, Adrienne von Speyr. Gelebte Theologie, 1984.
  • ―, Adriennes Charisma, in H. U. von Balthasar – G. Chantraine – A. Scola (Hrsg.), Akten des Römischen Symposiums 27.-29. September 1985 : Adrienne von Speyr und ihre kirchliche Sendung, Einsiedeln, Johannes Verlag, 1986, 173⁠⁠-⁠⁠178.
  • Bagnoud, Jacques, Adrienne von Speyr Médecin et Mystique, Roma, Chōra, 2018.
  • Balthasar, Hans Urs von – Chantraine, Georges – Scola, Angelo (Hrsg.), Akten des Römischen Symposiums 27.-29. September 1985 : Adrienne von Speyr und ihre kirchliche Sendung, Einsiedeln, Johannes Verlag, 1986.
  • Hans Urs von Balthasar-Stiftung (Hrsg.), Adrienne von Speyr und ihre spirituelle Theologie: die Referate am Symposium zu ihrem 100. Geburtstag, 12. – 13. September 2002 in Freiburg im Breisgau, Freiburg i.Br., Johannes Verlag Einsiedeln, 2002.
  • Smith, Jeroen, Adrienne von Speyr 1902-1967 : Gehoorzaam aan het Woord, EH Leiden, Katholiek Alpha Centrum, 2020.
  • Speyr, Adrienne von, Aus meinem Leben: Fragment einer Selbstbiographie, herausgegeben von H. U. von Balthasar, Einsiedeln, Johannes Verlag, 1968.

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